周辺国の領有権争いが続く南シナ海スプラトリー(南沙)諸島。
朝日新聞とテレビ朝日の取材班は今月、フィリピン政府が
西フィリピン海と呼び、実効支配する海域を訪ねるため、
漁船をチャーターした。目的地は同諸島アユギン礁。
そこに鎮座する「難破船」を私たちはめざした。そこが、軍事力を背景に領域拡張路線を走る中国がいま
最も締め付けを強め、争いの「火種」になりかねない比側の
拠点であり、紛争の最前線であるからだ。
「難破船」はもともと、第2次世界大戦中に建造された米軍の
戦車揚陸艦だった。全長100メートル。南ベトナム政府に
払い下げられたが、ベトナム戦争後、フィリピンに供与された。
シエラマドレ号と名付けたフィリピン国軍が1999年、アユギン礁に
座礁させ実効支配の拠点とした。
中国が95年、「漁船の避難所」として、フィリピンの排他的
経済水域(EEZ)内にあるミスチーフ礁に建造物を構築した。
対抗して、南東に33キロのアユギン礁に座礁させたのだ。
以後、海兵隊員らを約10人ずつ交代で常駐させる。
遠目には対空砲を備え、レーダー塔が周囲を見渡す立派な巨艦
だが、乗船すると建造後70年の船体はさび、甲板のあちこちに穴。
「梁(はり)を踏んで歩け。でないと踏み抜くぞ」と警告された。
砲台は朽ち、ドアはないか外れている。船倉は巨大なゴミ屋敷と
化していた。蚊とゴキブリが大量に繁殖し、ネズミが走り回る。
フィリピンは、 同諸島の九つの島や環礁を占有するが、中国船の
監視に常にさらされ、近づく船が妨害されるのはここだけだ。
中国にとっては、ミスチーフ礁に近く、周辺で最 も脆弱な拠点と
みているからだろう。比側の船の接近を阻んで「難破船」の
大規模補修を許さず、崩れ落ちる時を虎視眈々と待 つようだ。
3月末まで駐留したフィリピン海軍のマイク・ペロテラ中尉(31)は
「手を入れなければ、あと5年で崩れて不思議はない」。マニラ駐在の
外交官は「崩壊したとたんに中国が環礁を占拠するだろう」とみる。
南シナ海のパラセル(西沙)諸島で5月に始まった中国とベトナムの
争いは、中国が7月に石油試掘作業を終え、小康を得た。その後、
「中国艦船が多数スプラトリーに南下している」と比軍幹部は証言する。
南シナ海で中国と周辺国の摩擦は絶えない。米国は、アジア回帰の
「リバランス」政策を打ち出し中国を牽制(けんせい)する。こうした
構図は尖閣諸島をめぐり日中がせめぎあう東シナ海にも通じる。
実際に私の乗った漁船も中国船による「接近拒否」の洗礼を受けた。
(機動特派員・柴田直治)
◆キーワード
<南シナ海問題> 海上交通の要衝で、好漁場でもある南シナ海は、
天然ガスや石油の埋蔵が有望視され始めた1970年代から、
領有権争いが激しくなった。パラセル(西沙)諸島は中国、台湾、
ベトナムが、スプラトリー(南沙)諸島は、この3者に加え、フィリピン、
マレーシア、ブルネイが領有権を主張する。中国は、94年の
国際海洋法条約の発効より前の歴史的経緯から、海域の9割の
権益を譲らず、他国の排他的経済水域(EEZ)を無視して
艦船を派遣。埋め立てなどを強行して実効支配を強めている。
迫る中国船、「沈められる」 南シナ海ルポ
8月1日午後6時半、私たちの乗った漁船は、南シナ海のスプラトリー
諸島に浮かぶアユギン礁まで16キロの場所にいた。 目の良い乗組員が、はるか水平線の近くに停泊する中国船を
見つけた。中国海警局(沿岸警備隊)の大型船3111。
漁船と逆方向を向き、動く気配がなかったので、全員で夕食の
カップ麺を食べ始めたときだ。
「向きを変えたぞ」。操舵(そうだ)士が叫んだ。中国船がUターンし、
猛烈な勢いで突進してきた。日が沈みかけていた。船主の
パシ・アブドゥルパタさん(40)は「礁に入るのを阻む気だ」と
動揺を隠さない。
6ノット(時速約11キロ)の漁船に対し、中国船は37ノットという。
10分ほどで漁船の目の前に割り込み、強力なサーチライトを
当ててきた。「ブオー」と威嚇するように大きな警笛を鳴らす。
「ぶつけられるかも」
私たちはあわてて救命胴衣を身につけ柱やへりにしがみついた。
漁船は面舵(おもかじ)をきり、北に進路を変えるが、中国船は
執拗(しつよう)に追ってくる。船間が約50メートルに迫った時、
中国船は突然止まった。
漁船は船長の機転で浅瀬を走り、引き潮も味方して、中国船は
それ以上進めなくなったようだ。何とか礁内に逃げ込めた。フィリピン西部パラワン島の港を出て24時間。台風の影響に
よる激しい向かい風と高い波で、到着は予定より10時間遅れた。
この海域を管轄する自治体カラヤン群島町のユーヘニオ・ビトオノン
町長が漁船に同乗していた。「何度も中国船の嫌がらせを受けて
きたが、今回は沈められるかと一番緊張した。荒波のなかで
民間船をここまで追い詰めるとはひどい」
環礁の外側には、昨年4月から中国船が常駐。このころ、環礁に
近づく船への妨害も始まった。通常は2隻が南北に停泊し、4隻の
時もある。週2回は400メートル程度まで近づいてくる。
今年3月には中国船が比水産庁の船に無線を通じ、英語で
「ここは中国の領海である。退出しなければ、何が起きても
責任はそちらにある」と警告した。
8月4日午前9時、私たちを追いかけた海警3111が接近してきた。
「訪問者があると、いつも偵察に来る」とロランド・ウォン伍長(29)。
中国のものとみられる偵察機がその後、上空を旋回した。
サラコディン・マンギディア少尉(29)以下11人の海兵隊員は、
6月中旬にシエラマドレ号に赴任した。船内に蚊帳やハンモックを
つって暮らす。記者たちも甲板などで同宿した。
駐在することそのものが任務。現代の防人(さきもり)である。
任期は3〜5カ月だが、生活環境は過酷だ。空調はもちろん、
扇風機も冷蔵庫もない。
電気は発電機で夜の数時間供給されるだけ。
炊事、洗濯、体を洗う水は雨水が頼りだ。
コメと缶詰類、飲料水は運搬船、時に軍用機から配給されるが、
おかずの魚や貝類は海で取って自活する。娯楽はDVD鑑賞や
チェスやトランプなど。廃材を使ったダンベルなどで手作りしたジムで汗を流す。
海兵隊は、同国軍約12万5千人のうち約8千人の精鋭部隊だ。
反政府ゲリラとの戦闘の前線に立つ。
軍歴20年のエンリケ・エラシオン軍曹(43)は前線勤務よりきついと
こぼす。「家族と離れ、時間をもてあます。忍耐が必要だ」。家族との
連絡は、1本だけの衛星電話に向こうからかけてもらうしかない。
「最後の血の一滴が尽きるまで降参しない」。船内のタンクには
こんな書き込みがあった。だが、中国軍との装備の差は歴然だ。
ゲリラとの実戦経験の豊富なラジク・サヌシ軍曹(39)は言う。
「中国船が本当に攻めてきたらどうする? 正直言って分からない。
神のみぞ知る、だ」
■人口130人、移民募り実効支配
台風の影響が収まった6日朝、2隻の中国船の手前をすり抜けて
アユギン礁を出た。北西へ約220キロ、22時間かけてパガサ島に
着いた。広さ37ヘクタール。フィリピンが実効支配する最大の
島で唯一、民間人が住む。
人口約130人。約30人の駐留軍人をのぞけば町役場職員や
教師、看護師、建設作業員とその家族だ。
約450キロ離れたパラワン島(本島)との交通手段は不定期な
船便と、ごくまれに来る軍用機だけ。これといった産業もない。
人々はなぜ住むのか。ビセンシオ・ミラン町長顧問(44)は
「経済的な事情を抱える人が多い」と打ち明ける。1300ペソ
(約3千円)相当のコメや塩、食用油などを町が毎月配給する。
町営住宅、電気、水道はタダ。
実効支配の実績づくりのための移民政策だ。
政府は74年に島の実効支配を宣言。92年から民間人向け
住宅や診療所の建設を始めた。
いまは携帯電話やインターネットも通じる。
教師として昨年赴任したジャキリン・モラレスさん(38)は、
本島の山間部で家族と離れて補助教員をしていた時、
募集を知った。給料は上がり、家族一緒の生活に不満は
ないが、本島に教職があれば戻りたい。
チャイナリンちゃん(3)は島で生まれた唯一の子どもだ。
父親が中国とスプラトリーをかけて名づけた。母親のア
イザ・ベリダンさん(28)は助産師の力も借りずに産んだ。
夫婦とも町職員。4年間、給料はほとんど貯金し、本島に
ココナツ農場を買った。
「あとは中国との間で平和が続いて欲しい」
同諸島で領有権を主張する中国、台湾、ベトナム、
マレーシアは、島や環礁に滑走路や港、リゾート施設をつくり、
政策的に人々を居住させる。
経済力の劣るフィリピンの支配地が最も貧相な状況にあることは
間違いない。
■6カ国・地域争う海域
南シナ海は海上交通路の要で資源も豊かなため、周辺国が
領有権を主張する。近年、実効支配の範囲を広げようとする
中国の動きが激しさを増す。他国のEEZ内にも艦船を送り
環礁を埋め立て建造物をつくる。
フィリピンとの間では12年4月、スカボロー礁で艦船が
にらみ合った。艦船数が不足してフィリピンが撤退すると、
中国は艦船を常駐させて占拠を続ける。フィリピンは昨年、
仲裁を国際海洋法裁判所に求めた。
東南アジア諸国連合(ASEAN)は、中国と南シナ海での
「行動規範」づくりをめざす。ASEANと中国は02年、
「領有権問題は平和的に解決する」とする「行動宣言」に署名。
「規範」は、これに法的拘束力を持たせる狙いだ。
フィリピンはさらに今年4月、米国との間で、米軍の比国内での
活動を拡大する新軍事協定に署名した。冷戦終結や反米機運の
高まりで、米軍基地群は92年にフィリピンから撤退。中国が
ミスチーフ礁を占拠したのは3年後だ。米軍の新拠点は
パラワン島にも計画中とされ、その目と鼻の先でも中国が
領域拡張の動きを繰り返すかが焦点になる。
アジアを重視する「リバランス」政策を掲げる米国。その出方を、
他のアジア諸国は対中関係との間合いのなかで注視する。