朝日新聞 2013年12月1日

十余年前、妻が夜勤のとき、私が保育園児の息子2人に夕食を
食べさせ、寝かしつけなければならなかった。
その際、アンパンマンのビデオにどれだけ助けられたことか。
慌ただしい子育ての日々を乗り切れたのはアンパンマンの
おかげだった。
やなせたかしの訃報を聞いて彼の著作を読みあさった。
結論から言うならやなせは孤独に苛まれつづけた人だ。
しかし、その孤独なくしてアンパンマンは生まれなかっただろう。
やなせの人生と思想を知るうえで最適の書は
『アンパンマンの遺書』である。これを読むと彼がどれほどの
苦難を乗り越えてきたか、よくわかる。
戦前、5歳で父親と死別。7歳のとき母親は再婚して家を出た。
やなせと弟は高知県南国市の伯父のもとで育てられた。
ハンサムで快活な弟は皆に愛された。
だが、不器量なやなせは「暗くてシャイな性格に」なり、
日中戦争で徴兵され、飢えに苦しみつつ中国大陸を1千キロ
行軍した。弟はフィリピン沖で戦死した。遺骨はなく、骨壺に
一片の木片が入っていた。
戦後、漫画家になったやなせは番組構成から舞台美術まで
何でもこなす器用さが災いし
「四十歳を越えてもまだ自分の方向がまったくわからなかった」
「友はみんなひと花咲かせて、はるかに遠くを走っていた」
「漫画家としては絶望だと思った」
当時の彼の心象風景は『ユリイカ』のやなせ特集に掲載された
昔のイラストに描かれている。絵柄からにじみ出る哀しみに
胸を衝かれる思いがする。
その哀しみの中からアンパンマンは誕生した。物語の根底に
あるのは彼の孤独な生い立ちと飢えに苦しんだ戦争体験だ。
少年時代、「なんのために生まれて なにをして生きるのか」
(アンパンマンのマーチ)と彼は自問を繰り返した。
戦争中に教え込まれた「聖戦」は、敗戦を境に「悪魔」の所業に
逆転した。正義はある日突然逆転する。では、逆転しない
正義とは何か。自分を犠牲にしても目の前の飢えた人に
一片のパンを差し出すことである。
アンパンマンは当初大人たちから「顔を食べさせるのは残酷だ」と
ひんしゅくを買った。
だが、描きつづけるうちに3〜5歳児の間で人気が広がった。
その後の事情は『絶望の隣は希望です!』に詳しく書かれてある。
出版社から「読者は小さな子供だからレベルをうんと下げて」と
言われてもやなせは肯んじなかった。アンパンマンを描くうちに
幼児たちの恐ろしさが見えてきたからだ。
彼らは「真っすぐな目」を持ち、「気に入らない本は放り投げる。
冷酷な批評家」だ。やなせは自分のメッセージを子供たちに
真剣に伝えることにした。
■太陽のような力
アニメ化でアンパンマン人気に火がついた1988年秋、
彼を支えてきた夫人が乳がんに冒されていることがわかり、
5年後に亡くなった。やなせは仕事にかまけて夫人の不調に
気づかなかった自分を責めつづけた。
父、母、弟、そして妻。別離の悲しみに押し潰されそうに
なりながら、それを乗り越えて愛と勇気の物語は綴(つづ)られた。
震災後、ラジオ局には「アンパンマンのマーチ」のリクエストが
殺到した。アンパンマンには太陽のような力がある。
これからもその輝きが失せることはないに違いない。
◇うおずみ・あきら ジャーナリスト 51年生まれ。
『冤罪(えんざい)法廷』など。
コメントです。
「アンパンマン」のやなせたかしさんの話題です。
上の写真、素敵な笑顔をされていますね。
癒されるのはもちろんですが、
切ない気分にもなります。
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