home003.gif

2016年01月25日

(難民 世界と私たち)ボートピープル、日本に生きる難民  インドシナ逃れ30年超、いまシリアを憂う

朝日新聞  2016年1月24日


201601251.jpg
沖縄県・那覇沖の西3キロの東シナ海で発見されたベトナムの難民船
1989年8月23日

世界を揺るがす難民問題に、日本が一定の役割を果たしていた
時代がある。東西冷戦期から、ベトナムやカンボジアなどの
インドシナ難民を1万1千人以上、受け入れたのだ。
日本に定住した彼らは、460万人が国を追われたシリアの
難民問題を、そして日本の対応をどう見ているのか。

横浜市のベトナム料理店主グエン・バン・トアさん(56)は昨秋、
シリア難民の男児(3)がトルコの海岸に遺体で漂着した映像に
言葉を失った。「いろんなことを思い出した。自分も、
ああなっていたかもしれない」

ベトナム南部ミトーの出身。1980年代、祖国を船で脱出した
ボートピープルだ。「難民にとって今日は今日、明日は明日。
国にいても死ぬかもしれない。だから、死んでも行く」

1975年、ベトナム戦争が終わると、社会主義体制になった
ベトナム、カンボジア、ラオスのインドシナ3国からは、迫害を
恐れる300万人以上が脱出。米国、カナダ、豪州などに
渡った。日本も受け入れたのは、米国など自由主義陣営の
要請があった。

「逃げなさい」。父母の言葉に従い、トアさんは80年10月、
百数十人がひしめく木造漁船に乗り込んだ。4日目。
オランダのタンカーに救われ、千葉に上陸。沖縄や東京の
難民支援施設をへて、神奈川県藤沢市の自動車部品工場で
働いた。約15年前、同じ境遇の人たちが多く住む団地に店を
構えた。日本で育った3人の子どもは、みんな成人した。

東日本大震災が起きた時は、津波の映像に涙がとまらなかった。
「日本に恩返しがしたい」。11年夏、仲間とバスで宮城県石巻市に
入り、フォーや揚げ春巻きを被災者に振る舞った。1
3年秋のフィリピン台風や昨春のネパール地震でも、仲間と義援金を
集めた。「私たちは大変な状況にいる人のつらさが分かる」

群馬県の福祉施設で働くグエン・バン・リーさん(63)も、

シリア人男児の映像に涙した一人だ。82年にボートで
ベトナムから逃れた。「あの時も、ボートに乗った子どもが
たくさん亡くなった。でも、21世紀にそんなことがあっていいのか」

男児の映像は国際社会を動かした。
昨年9月、EUは難民16万人、米国は最低1万人のシリア難民
受け入れを発表。
安倍晋三首相は、難民支援の拠出を3倍に増やすとする
一方、受け入れは表明しなかった。
自力で日本に来たシリア人にも門戸は狭く、11〜15年に難民
申請した65人のうち、6人しか難民と認められていない。
リーさんは「(インドシナ難民と)状況も違うし、受け入れが
難しいのも分かる。でも、私たちはみんな同じ気持ち。
できれば難民を助けて欲しい」と話す。(伊東和貴)



(難民 世界と私たち)日本定住、苦難の日々 

言葉・仕事なじめず、心に傷も


ベトナム戦争後の混乱や迫害を逃れたインドシナ難民。
新天地での生活も、苦労の連続だった。

「今は違うけど、昔はアジア系の外国人が低く見られていた」。
群馬県伊勢崎市に住むグエン・バン・リーさん(63)はそう話す。

祖国を出たのは1982年。
雨水と1枚のガムだけで渇きと空腹をしのぎ、2週間の
漂流の末に助けられた。金型や電気工事の技術を身につけ、
ある会社では日本人の先輩より先に昇進。
同僚に急に冷たくされ、人間関係に悩んだ。

やがて、前橋市のキリスト教系社会福祉法人の施設
「あかつきの村」で同胞の支援を始めた。約100人が
中古品のバザーの収益を糧に暮らした時期もあるが、
いま残るベトナム出身者は4人。
日本で統合失調症にかかった人ばかりだ。

その1人の男性クンさん(57)=仮名=は、
83年に来日した。
日本政府が難民支援業務を委託したのはアジア福祉
教育財団難民事業本部。その姫路定住促進センター
(兵庫県姫路市)で日本語教育と生活ガイダンスを
3カ月ずつ受け、滋賀県の花屋に就職した。
「言葉もできず、1人で不安だった」。

不眠症と疲労のため3カ月で辞め、87年に
あかつきの村に移った。

祖国の父母は亡くなった。
「日本は平和。病気だから、ここが安心」。そう話すが、
自室にはベトナム人音楽家のCD約30枚が山積みだった。
「両親が死んで悲しい」。望郷の念が見え隠れする。

戦時の記憶、餓死寸前の漂流生活、海賊の襲撃……。
ボートピープルの多くは心身ともにボロボロで日本に着き、
言語や文化の違い、差別に直面した。心を病むのは
「息子だけでも」と親に1人で送り出された男性に多いという。

難民事業本部は、インドシナ難民の多くが住む横浜市泉区、

大阪府八尾市の役所など計7カ所に窓口を設け、
相談に応じている。
だが、あかつきの村職員で精神保健
福祉士の桜井洋樹さん(34)は指摘する。
「3カ月の日本語教育で自立させ、精神に不調を感じた時の
サポート態勢もない。年金や介護保険の周知も足りず、
高齢になってから生活に困る人もいる」

 ■国籍どこ、悩む2世 日本育ち「取得条件緩和を」

難民2世は社会に溶け込み、活躍の場を広げている。
ただ、自らのアイデンティティーに悩む若者は少なくない。

群馬県の大学4年の女性(22)もその1人。
ボートピープルだった両親は来日後、工場で必死に働いて
兄2人と自分を養った。

家ではベトナム語、外では日本語。小学生の時、同級生と
違うことに気付いた。「お前の家、ワラなんだろ」と男子に
からかわれた。「私は日本に暮らすベトナム人」。
高校に入るとカタカナの名前を日本名に変え、
出自を隠した。

「日本は窮屈」。そう思って暮らすなかで、夢ができた。
「小学校の時に『人種のサラダボウル』と習った
米国に行ってみたい」

だが、家計は苦しく、高3の冬、合格した大学への進学を
断念しかけた。日本福音ルーテル社団の奨学金を
受けられることになり、何とか進学できた。

試練は続いた。米国留学の準備を始めた大学2年の冬
、「国籍」がないことを知った。「これしかないよ」と母に
渡されたのはパスポートではなく、再入国許可書。
「国を捨てて日本に来たんだよ」と母は語った。

祖国を逃れたベトナム難民は、外国人登録は「ベトナム」でも、
事実上は「無国籍」の人が少なくない。日本国籍も取れるが、
20歳以上で自分や親族のお金で生計を立てられること
などが条件だ。女性は「私はどこの人なの?」と悩み続けた。

13年秋、ついに米国に半年間留学した。再入国許可書を
見た米国の空港の係官に「こんな怪しいもの」と尋問され、
悔しかった。でも、いろんな国の移民・難民2世と出会い、
友人の輪が広がった。
「国籍より、私自身が何を考えて何を言うかが大事だと思えた」

この春、海外展開する企業に就職する。日英ベトナム
3カ国語の語学力が武器になった。
「今までつらいことを我慢してきて良かった」。

早く就職し、日本国籍を取りたいという。

シリアの難民問題が世界的な課題になり、日本でも受け入れを
めぐる議論が出始めた。
女性は自らの体験を振り返り、こう思う。
「受け入れた後のことが心配。日本で生まれ育った
難民2世には、国籍を取る条件を緩和して欲しい」

■少数者、社会の支援不可欠 
インドシナ難民、受け入れ1.1万人

「難民鎖国」とも称される日本が初めて大量に受け入れたのが
インドシナ難民だ。20年以上続いた南北ベトナムの戦争が
1975年に終結。75年5月、米国船に救助されたベトナムの
ボートピープル9人が千葉港に上陸した。
日本政府は当初、一時滞在だけを認めていたが、国際社会の
批判を浴び、78年に初めて3人の受け入れを決めた。

大東文化大学の小泉康一教授(難民・強制移動民研究)は
「米国からの強い圧力の下、アジア安定のための国際協力と
いう観点で受け入れが行われた。
冷戦時代で、社会主義国からの難民には自由主義国の
正しさを示す『価値』もあった」と指摘する。

冷戦が終わり、米国が超大国だった時代は過ぎた。
「イスラム国」のような過激派組織が各地でテロを起こし、

「難民受け入れがテロリストの流入を招く」との見方すら広がる。
だが、アントニオ・グテーレス前国連難民高等弁務官は
「難民は住む場所を壊され、市民が殺されるような状況を
逃れたテロの犠牲者だ。テロが難民を生む」と強調する。

早稲田大学大学院の川上郁雄教授(文化人類学)は
「難民は迫害を受けた祖国でも定住国でも少数者で、
受け入れ後の定住支援こそが重要。定住の成否は、
難民の側だけでなく日本社会の側にもかかっている」と話す。
(伊東和貴)

 ■日本のインドシナ難民受け入れ

1975年 ベトナム戦争終結。日本にボートピープル初上陸

  78年 閣議了解一時滞在ベトナム難民3人に初定住許可

  79年 内閣にインドシナ難民対策連絡調整会議を設置

      政府委託アジア福祉教育財団に難民事業本部発足

      姫路定住促進センター(兵庫県)開所

  82年 難民条約発効

2005年 インドシナ難民受け入れ終了

 ■定住したインドシナ難民の数

 出身国    定住者   日本国籍取得者

ベトナム    8656人  908人

カンボジア   1357人  321人

ラオス     1306人  178人

計     1万1319人 1407人

(定住者数は受け入れ終了した2005年末現在法務省調べ。
日本国籍取得者数は14年3月末現在、難民事業本部調べ)


コメントです
世界中で問題化している大量のシリア難民の話題から
派生して、ベトナム戦争終結後のボートピープルの
話題です。
本文にもありますが、当時は米国の圧力もあって、

相当数のベトナム人難民を受け入れたようです。
現在、日本政府の姿勢は、「お金は出すが受け入れはしない」
ですが、それは仕方ない部分もあると思います。
基本、日本人は他国の方々と共存下手ですから。
いずれにしても、難民受け入れはあくまでも応急手段であって、
理想は難民が発生しない国際社会を目指すべきですが、
現状では、残念ながら絶望的ですね。




posted by salsaseoul at 00:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本・政治 経済
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/172671609
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック