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2015年10月03日

(世界発2015)飛び越えた「壁」の先に ベルリン「初の亡命」警備隊員

朝日新聞 2015年10月1日

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生前のコンラートさん(右)とクニグンデさん=クニグンデさん提供

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東西ドイツを隔てる「ベルリンの壁」の建設が始まったばかりの
1961年8月、鉄条網を飛び越え東から西へと逃れた東独の
警備隊員がいた。当時19歳だったコンラート・シューマンさん。
壁の建設後「初の亡命者」と英雄視されたが、自身は東独の
秘密警察におびえ続け、98年に自ら命を絶った。
10月3日で東西ドイツ統一から25年。
家族や友人の証言からその人生をたどった。

 ■19歳の決断「自由の象徴」

東西ベルリンの境界だったルピナー通りとベルナウアー通りの
交差点。東独が壁建設を始めた2日後の61年8月15日、
まだ高さ1メートル弱の鉄条網しかなかった。東独の警備隊員
だったコンラートさんは、同僚らがそばを離れた隙を突いて
ジャンプ。10メートルほど離れた西側の警察車両に走り込んだ。
一瞬の出来事だった。

本人は「直前の2時間で悩み抜いた末に腹を決めた」と後に
語った。鉄条網の向こうで西側メディアが大勢カメラを構えて
いた。「警備隊員も発砲しづらい」と考えたコンラートさんは、
鉄条網の張り具合を確かめるふりをして少しずつ踏みつぶした。
「来い、来い」。西側から呼びかける声が聞こえ、
「条件は整った」と思ったという。

「鉄条網を越えようとする人々を撃てと命じられても、
私には絶対できなかった」。
コンラートさんは亡命の理由をそう語った。

ジャンプの瞬間をとらえた西独の写真家、
ペーター・ライビングさん(2008年死去)は
「乗馬の障害物競走を撮影した経験がいきた」と後に語った。
「自由への跳躍」と題した写真は、冷戦下の西側で
「自由の象徴」となった。

 ■新生活、秘密警察におびえ

コンラートさんは亡命後、独南部バイエルン州ギュンツブルクの
病院で看護の仕事に就く。

当時の下宿先の子供で6歳年下のルートビッヒ・クロイツェルさん
(67)は、コンラートさんを兄と慕った。
羊飼いの経験があるコンラートさんは、 木上の小屋の作り方を
教えてくれた。苦手な野菜料理が食卓に並ぶと、牛の鳴きまねを
して下宿先の一家を笑わせた。「ユーモアのある人だったが、
急に黙り込 んで寂しそうな時もあった」という。

コンラートさんは東独の両親に宛てて、「無事でやっている」と
だけ書いた手紙を何通も出した。秘密警察の追及を恐れ、
差出人の欄には何も書かなかった。

そんな時、勤め先で看護師のクニグンデさん(76)と出会い、
結婚。子供も生まれた。その後、大手自動車会社に機械工の
職を得て生活は安定したが、東独の記憶は離れなかった。

見知らぬ車両や人物を見ると、東独の秘密警察が捕らえに
来たと疑った。夜間の車の運転も避けた。
「事故に見せかけて殺される」と警戒したからだ。 西側メディアの
取材や講演、式典出席の依頼があったが、多くを断った。
クニグンデさんは振り返る。「『自分は英雄なんかじゃない』。
それが夫の口癖でし た」

 ■統一後、むしばんだ「亡霊」

転機は89年11月9日、ベルリンの壁崩壊だった。その晩、
コンラートさん夫妻は新聞社の手配でベルリンへ。ハンマーで
壁をたたく若者たちを前にコンラートさんは泣き崩れ、

繰り返した。「信じられない」

東西統一が実現した90年、コンラートさんは約30年ぶりに
故郷ツショッハウ村を訪れた。父はすでに他界。
母と息子は抱き合って涙を流していたという。

幼なじみのフランク・フォークトさん(68)は「亡命は村人全員が
知っていたが、口に出せば秘密警察に何をされるか分からない。
コンラートの家族も何事もなかったように振る舞った」と言う。

秘密警察は東西統一と共に、消滅した。コンラートさんは周囲に
「ようやく本当の自由を感じている」と語ったという。

だが実際は、東独の「亡霊」に苦しんでいた。旧東独出身者を
見るたびにスパイではないかと身をこわばらせた。
4週間も不眠の日々が続き、仕事も休みがちになった。

うつ病だった。

「壁が開いたことで、旧秘密警察や自分に恨みを持つ昔の
仲間が簡単に報復できるようになった。夫はそう考えた
のでしょう」とクニグンデさんは言う。

統一から8年後の98年6月20日。コンラートさんが自宅近くの
果樹園で首をつっているのを、クニグンデさんが見つけた。
遺書はなかったが、ポケットに紙片が1枚。
「魂が泣くとき……」とだけ書かれていた。

葬儀の後、クニグンデさんの元に差出人不明の手紙が届いた。

「裏切り者がようやく報いを受けた」。そう書かれていたという。
「夫は心底苦しんでいたんだと、そのとき本当に分かった
ような気がしました」

ドイツ統一から四半世紀。再開発が進む旧東西ベルリンの
境界には今、コンラートさんの写真や像が飾られ、
土産物店には関連グッズが並ぶ。

コンラートさんが生きていたら、欧州最大の経済大国となった
今のドイツをどう思うか。クニグンデさんは、
しばらく考えてからこう答えた。

「分からない。でも夫はお金のあるなしよりも、家族が
離ればなれにならずにすむ世界を望んでいました」

 (独南部ギュンツブルク=玉川透)

 ◆キーワード

 <ベルリンの壁> 
第2次大戦でドイツが敗れベルリンは東西で分断統治された。
東独の共産主義政 権は1961年8月13日、市民の亡命
阻止などのため総延長150キロ以上、高さ約3メートルの
壁の建設を始めた。東西冷戦下のドイツ分断の象徴となった。
壁を越えようとして射殺されるなどした犠牲者は130人以上。
89年11月9日に壁の検問所が開放され、壁は崩れた。
約1年後の90年10月3日、ド イツは再統一された。

 ■コンラート・シューマンさんの生涯とドイツの歩み

 <1942年3月> 独東部ツショッハウに生まれる

 <45年> ドイツ敗戦。その後、東西に分断

 <60年> 東独警察の警備隊に勤務

 <61年8月> 西独の境界を警備中、西独に亡命

 <61〜63年>独南部のクロイツェル家に下宿。病院勤務

 <62年> クニグンデさんと結婚

 <70年>大手自動車会社アウディで機械工として勤務

 <87年>米レーガン大統領の招待でベルリンの式典出席

 <89年11月> ベルリンの壁崩壊

 <90年10月> 東西ドイツ統一

 <98年6月> 自宅近くの果樹園で首つり自殺

 <2015年10月> 東西ドイツ統一25周年


コメントです。
東西ドイツ分断時に、東から西へ逃げ込んだ警備員の
その後の話題です。
本文から、ずいぶん神経をすり減らして生活されたのが
うかがえます。
ここで東西ドイツの甲乙については割愛しますが、
西側からすれば、コンラート・シューマンさんを
シンボル化することによって、
統一に向けての
活動をするのに彼の存在はずいぶん有益だったと
思われます。



posted by salsaseoul at 23:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州
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