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2015年07月31日

(世界発2015)ナチスに拉致され、揺れた半生 ポーランド人男性語る


朝日新聞 2015年7月29日

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トバルデツキさん=6月、ワルシャワ、玉川透撮影

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養子になって間もない頃のトバルデツキさん=「ぼくはナチにさらわれた」
(平凡社刊)から

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ドイツの家族。右が養父=「ぼくはナチにさらわれた」(平凡社刊)から

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ポーランドの実母(左)と、その2番目の夫=「ぼくはナチにさらわれた」
(平凡社刊)から

 第2次大戦中、ナチス・ドイツは「金髪・碧眼(へきがん)(青い目)」の
子供たちを他国から連れ去り、ドイツ人にしようと企てた。
「レーベンスボルン(生命の泉)」計画と呼ばれ、被害者は
数十万人にのぼるともいわれる。戦後70年の今、ポーランド人の
被害男性が拉致に翻弄(ほんろう)された半生を語った。

 ■4歳でドイツへ、養子に 16歳、実母に再会し「帰国」

「子供の出生に秘密があるなら、それを早く教えてあげるべきだ。
遅れるほどショックは大きい」

ワルシャワ市内の自宅で6月、ポーランド人の
アロイズィ・トバルデツキさん(77)は、数奇な半生を語り始めた。

独西部コブレンツの公務員家庭での暮らしが変わったのは、
終戦まもない1948年、11歳の頃のことだった。
当時の名前は「アルフレート」。学校 から帰宅すると、父母と
祖父母が暗い表情で待っていた。尊敬する父がこう言う。
「アルフレート、ポーランドのお母さんから、手紙が届いている」

自分が実子でないことは知っていた。幼い頃、養子縁組が
決まるまで預けられていた孤児院に、養父が引き取りに
来てくれた時のおぼろげな記憶もあった。
だが、実父はナチス親衛隊の高級将校で戦死し、実母は
出産時に亡くなったと聞かされていた。

「自分がポーランド人なんてあり得ない。ナチスの宣伝の
影響で、『ポーランド人は汚い、人間以下』と思い込んでいた」

ナチスの「生命の泉」計画は、周辺国から金髪・碧眼の
子供を誘拐し「ドイツ人孤児」として教育し、子供の
いないドイツ人家庭の養子にさせるというものだった。
戦後、国際機関などが拉致被害者の身元の特定を
試みたが、ナチスが子供の名前を変えたり、戸籍を
改ざんしたりしたため、作業は難航した。

トバルデツキさんの場合は、一緒に誘拐された7歳年上の
いとこが「アルフレート・ハルトマン」というドイツ名を
覚えていたことが身元判明のきっかけになった。だが証明は
難しく、トバルデツキさんは自分はドイツ人だと信じ続けた。

ポーランドの実母を再び意識するようになったのは16歳の
夏休みだった。育ての母はがんで亡くなり、養父は再婚。
「ポーランドに遊びに来ないか」 という実母の誘いに、
思春期の心が揺さぶられた。「息子ではない」と告げる
つもりでポーランド西部に赴いた。駅のホームに迎えに
きていた実母の目を見た瞬 間、我を忘れた。
「天使のように優しかった。私と同じ青い目だった」。
2週間後、ポーランドにとどまる決心をした。

 ■東西冷戦下、養父が病に 会えぬまま、届いた悲報

実母が再婚したポーランド人男性も、トバルデツキさんを
温かく迎えてくれた。4歳でナチス親衛隊に汽車に
乗せられ、孤児院に入れられた記憶が徐々に
よみがえった。
3人で暮らすうち、ポーランド人への偏見は消えていった。

だが、「ドイツ人」の自分も捨てきれなかった。
惜しみない愛情を注いでくれたドイツの家族を
恨む気にはなれなかった。

19歳の時、疎遠になっていた養父から長文の手紙が

届いた。「私は決して(ナチスの)犯罪に加担していない。
おまえにだけは信じて欲しい」

2年後、養父が病に倒れたと知り、トバルデツキさんは
ポーランド政府に西独に行くためパスポートの発給を
申請した。だが、東西冷戦のさなかで約60回に及ぶ
申請は却下。国際電話もつないでもらえず、悲報が届いた。
養父の手紙も盗まれた。「秘密警察の仕業」だと思っている。

トバルデツキさんはポーランドでしばらく出自を
明かさなかった。秘密警察を恐れたからだ。
自伝「ぼくはナチにさらわれた」(平凡社ライブラリー、
足達和子訳)を出したのは69年。各国で翻訳され、
ナチスによる拉致被害が広く知られるようになった。

戦後70年の今年1月、実母は101歳で他界。
トバルデツキさんも数年前から体を壊している。
「生命の泉」計画の生き証人は年々、少なくなっている。

 (ワルシャワ=玉川透)

 ■金髪・青い目の子狙う 「優秀な国民」増やす目的

ナチス総統のヒトラーから秘密組織レーベンスボルンの
全権を委ねられた親衛隊長官のヒムラーは、独国内で
優秀とされた青年男女を集めて組織的に出産を進めたほか、
周辺各国から金髪・碧眼の幼児ばかりをさらって
ドイツ人化した。「優秀な国民」を増やす目的だったという。
ナチスは、アーリア人が世界で最も優れた民族で、
その特徴が金髪・碧眼だと考えた。

トバルデツキさんの自伝を日本語に翻訳した足達さんに
よると、子供の連れ去りは40年代初めから欧州各地で
行われた。最終的に500万〜600万人をドイツ人化
する計画だったという。被害者数は、50万人にのぼると
いう説もあるが、実態は不明だ。

ベルリン自由大学のクリストフ・コッホ教授は「出自が
分かってもナチスの思想に染まり、親元に戻ることを
拒否した子が多かった」と語る。ポーランド政府は自国の
被害者を20万人と推計しているが、ドイツ側は2万人と主張。
西独で身元が判明したポーランド人被害者は約1万人で、
本国に送還された。



レーベンスボルン(ドイツ語: Lebensborn)は、
ナチ親衛隊(SS)が設置した母性養護ホーム、
福祉機関。ドイツ民族の人口増加と「純血性」の確保を目指した。
生命の泉」または「生命の泉協会」と訳されることが多い。


第一次世界大戦以降、1920年の894,928人から、1932年の
512,793人へと、ドイツの出生率は激しく落ち込んだ。
男性の戦死によって、200万人以上の女性が夫ないし
夫となるべき男性を失ったためと考えられる。また、当時、
第一次大戦後の世界恐慌による生活苦などのための堕胎が
流行し、60万から80万(1937)もあり、出生率を越える、
と見積られた。

そこで、1934年3月、ナチス福祉局(NSV)は、母子援助制度を
創設し、経済支援を行った。ドイツ児童手当制度
(Das Deutsche Institut für Jugendhilfe e.V.)は、
父親が養育費を払えない子供たちの世話に当たった。

1935年12月、SS長官兼ドイツ警察長官ハインリヒ・ヒムラーは、
未婚の母と子のために、ベルリンに「生命の泉」
(Lebensborn)協会を創設した。この協会は親衛隊の
本部のひとつであるカール・ヴォルフの「親衛隊全国
指導者個人幕僚部」の管轄下だったが、自立運営され、
SSと無関係の母子も利用でき、「民族的義務」として
SS兵士からの寄付でまかなわれた。

1936年8月15日、「生命の御泉」協会は、最初の生活保護
施設「高地荘」を、バイエルン州エーベルスベルク郡の
シュタインヘーリンクに開設した。この住宅には、母親の
ための30床と子供のための55床があり、1940年までに
倍増され、SS医官グレゴール・エープナー
(de:Gregor Ebner)が担当した。しかし、ここに収容
されるためには、SSと同様の人種的、係累的な条件を
満たすことが求められるようになった。

これに続いて同協会の生活保護施設が国内外の各地に
次々と創設された。

なおフィクション作品(後述)の中には、レーベンスボルンが
ナチズムの人種思想に基づく特別な施設であるような扱いを
している場合があるが、上記のようにレーベンスボルンは
SSの福祉施設であるため、SS隊員と同様の人種条件が
施設利用者である母や子にも課せられたことによっている。

子供達のその後

彼らはその親たちが手を染めた戦争犯罪には無関係で
あるが、第二次世界大戦後、親の世代の犯罪が暴かれる
ことによって非難され、彼ら自身の出自を意識するように
なった。1960年代に青春期と成年期に成長するとともに、
彼らは罪の意識を感じ社会に拒絶された親たちを恥じた。

コメントです
第一次世界大戦以後のドイツ・ナチスによる
優性政策記事です。
しかし、ここでもやはり決定条件は『見栄え』ですか。
ここ、数年、日本でも大流行のワード『イケメン』も、
基本思想は似たようなものかもしれませんね。





posted by salsaseoul at 21:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州
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