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2015年07月12日

(世界発2015)虐殺20年、真の終止符いつ ボスニア・スレブレニツァ、犠牲7000人超

朝日新聞 2015年7月9日

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スレブレニツァ。中央に見えるイスラム教のモスクの尖塔(せんとう)と、
右上のセルビア正教の教会が共存する

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ポトチャリ記念墓地で夫ユヌスさんの墓に手をかけ、黙想するハリア・チャティッチさん

1992〜95年のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争末期に同国東部
スレブレニツァで起きた虐殺事件から、11日で20年になる。
いまだ遺体が発見されない犠牲者もおり、紛争の傷は癒えない。
短期間に7千人以上のボシュニャク系住民がセルビア人勢力に
殺された事件をめぐり、加害側が虐殺事実を認めた後も論争が
続いている。

 ■遺体捜索、ますます困難に

セルビア国境に近い山あいの町スレブレニツァから北に約5キロ。
白い墓標が並ぶポトチャリ記念墓地で、ハリア・チャティッチさん
(70)は、52歳で虐殺の犠牲になった夫ユヌスさんの墓の脇に
立ち、1人分空いた隣の地面を指した。

 「できるだけ早く、ここに息子を埋めてあげたい」

当時26歳だった長男のニハドさんの遺体はまだ見つからない。
セルビア人勢力がスレブレニツァに突入したのは95年7月11日。
ニハドさんは最後まで郵便局にこもってサラエボのラジオ局を
通じ外部に無線で戦況を伝える仕事をしていたが、家にかけ戻り、
ハリアさんとユヌスさんに逃げるように言って姿を消した。

セルビア人勢力は、かつてモスレム人と呼ばれたボシュニャク系
住民から男性だけを引き離し、山中で次々銃殺した。
ハリアさんは夫婦で国連平和維持部隊の基地があった
ポトチャリに逃げたが、ユヌスさんはそこで連行された。

虐殺の犠牲者の遺体はまとめて地中に埋められたあと、発覚を
防ぐためさらに分散して埋め直された。2000年代半ばから
DNA鑑定で身元確認が進み、これまでに6241人が記念墓地に
埋葬された。ユヌスさんの遺体は国境近くの集団遺棄現場で
見つかり、05年に埋葬された。

ニハドさんの手がかりは今もない。発見された遺体の身元確認
方法は確立される一方、肝心の遺体の捜索はますます困難に
なっている。数十〜数百人の集団遺棄現場の捜索が一段落し、
小規模な遺棄現場ばかりが残されたからだ。

山を通って脱出を図ったニハドさんが最後に目撃された場所は
最近まで地雷が除去されず、本格的な捜索ができていない。

ハリアさんは事件後、約90キロ離れたツズラで暮らし、01年に
町に戻った。夫が連れ去られた現場で男性住民をより分けて
いた地元警察官に対する裁判が行われ、目撃者として証言した。
しかし被告は間もなく逃亡し、裁判は中断した。

紛争前のスレブレニツァの人口は3万7千人。7割を占めた
ボシュニャク系住民が町を去り、今は7千〜9千人と推定される。
避難民の帰還は99年から始まったが、町の経済は立ち直らず
雇用に乏しいため、定住できたのは高齢者だけだ。

紛争後、国はボシュニャク系とクロアチア系が中心の
「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」と、セルビア系主体の
「セルビア人共和国」という二つの構成体に分かれた。
スレブレニツァはセルビア人共和国の管轄下。
歴代、ボシュニャク系が市長を務めるスレブレニツァ市当局と、
開発の許認可を持つ共和国政府との関係は微妙で、
それが復興を妨げている。

ハリアさんはもともとセルビア系住民の友人が多い。
「町の先行きが見えず、苦しんでいるのはセルビア系住民も
同じだ」と話した。

 ■被害と加害めぐり続く論争

今年4月半ば、セルビア人共和国のドディック大統領が
突然スレブレニツァを訪れて記念碑に花を手向け、
「大きな犯罪が行われたのは事実。すべての犠牲者に
哀悼を捧げる」と語った。

ドディック氏は強硬派のセルビア系政治家。スレブレニツァの
虐殺について、国連の旧ユーゴスラビア国際刑事法廷は
特定民族の抹殺を図った「ジェノサイド(集団殺害)」だと
認定したが、その見方をかたくなに拒否してきた。
そのドディック氏の訪問を、ドゥラコビッチ市長は
「歴史的だ」とたたえた。

だが、期待は裏切られた。20周年が近づくと、ドディック氏は
「ボシュニャク系の被害者はもっと少ない。スレブレニツァ
周辺ではセルビア系住民もボシュニャク人勢力に殺された」と、
再び声高に持論を訴え始めたからだ。

セルビア人共和国の強硬派も、国際法廷で
「事件を防げなかった」とされた隣国のセルビア政府も、
虐殺の事実は認めている。セルビア議会は10年、
自国の責任を認める決議を可決した。

ただ、セルビア政府は「全セルビア人に罪を負わせることになる」と
してジェノサイドと規定することを拒否。世論には「紛争全般を通じ、
セルビア系住民の被害が過小評価されている」という思いも強い。

6月、スイスで虐殺をめぐるシンポジウムに参加した
スレブレニツァ市代表団の元ボシュニャク系勢力司令官が
セルビア検察の逮捕状にもとづいて拘束される事件が起きた。
市のハジッチ司法問題参与は「記念日の前には必ず
政治的なゲームが行われる」と嘆く。

ボスニア・ヘルツェゴビナ下院に5月、紛争中の
「すべての側へのすべての犯罪行為」を非難する決議案が
提出された。だが、スレブレニツァの事件をジェノサイドだとしており、
セルビア人共和国の議員らが欠席して否決された。

ボシュニャク系のミルサド・メシッチ議員は「スレブレニツァの
虐殺がジェノサイドだったことは、戦争の真相にかかわる問題」
という。ただ「決議案を出したのは和解のためだ。可決されれば、
戦争に終止符が打てたのに」と悔やんだ。
(スレブレニツァ=喜田尚)

 ◆キーワード

 <ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争> 
1991年6月にスロベニア、クロアチアの独立宣言を機に
始まった旧ユーゴスラビア連邦解体の過程で、
ボスニア・ヘルツェゴビナは92年からボシュニャク、セルビア、
クロアチア系の主要3民族勢力間の紛争に突入した。
スレブレニツァは国連の「安全地帯」に指定されていたが、
95年7月11日にセルビア人勢力が制圧。約10日間で
少年を含むボシュニャク系住民の男性7千人以上を殺害した。
和平協議は同年11月に米デイトンで行われ、12月に英仏独、
ロシアの首脳も立ち会う中、パリで和平合意に署名、
紛争は終結した。


関連記事です。

バルカン半島は何でヨーロッパの火薬庫と呼ばれたのですか?


ひとつには、バルカン半島には主導権を握るだけの民族がなく
細分化されていることが理由です。

近代に入ると西ヨーロッパの影響で民族自決の機運が高まりました。
しかし、近年ユーゴスラビィアがスロバニア・クロアチアなどに細かく
分裂しても、なお居住区が入り乱れて戦争が起きたように、
民族ごとに国の境界線をひくことはできません。

また、複数の民族がまとまって一つの国を作ろうにも少数民族は
当然拒否します。

結局、常に紛争が燻り続けることから言われるようになりました。
次に、周囲の大国の陣取りゲームがあります。
元々は多くがトルコの支配下にあったバルカン半島において、
トルコの支配力低下と共に国民国家の概念がもたらされ、
ギリシア正教やスラヴ民族主義の関係を利用してロシア帝国が
この地域へ勢力を伸ばそうとしたことで、ロシアとオーストリア、
トルコの対立が先鋭化します。

1908年には青年トルコ党の革命によってトルコで「汎トルコ主義」
(トルコ系の民族でデカい国作ろうぜ思想)が推進され、他方
「汎ゲルマン主義」」(ゲ ルマン系の民族でデカい国作ろうぜ思想)の
オーストリアがセルビア系住民の多いボスニア・ ヘルツェゴヴィナを
併合し、これに反発したバルカン諸国がロシア帝国の後ろ盾で
「バルカン同盟」を結成し、トルコと戦争を開始します。

1912年に始まったこのバルカン戦争にはギリシアもブルガリアも
参加し、1913年にはロンドン講和会議で戦争は終結しましたが、
火種は残ったままとなったのです。

民族で細分化されたバルカン半島が細かい紛争で燻る一方、
あるときいずれかの大国が全てを飲み込んで欧州の
パワーバランスが崩れかねない。
ゆえに「ヨーロッパの火薬庫」なのです

コメントです
久しぶりにバルカン半島の話題です。





posted by salsaseoul at 14:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 欧州
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